アレハンドロさんの著書『タロットの宇宙』には、幾度となく「タロロジスト」という言葉が登場します。
タロロジストとして
タロロジストたるもの
など、言葉としては単に「タロットを扱う人」という意味に捉えられるこのタロロジストですが、
アレハンドロさんは、もっともっと深い意味を込めて使っているように感じざるを得ません。
この本は、わたしのタロットの師匠であり、勉強会の教材でもあるのですが、
アレハンドロさんの「序」の内容が本当に深くて、彼の宇宙観、人に対する考察は本当に素晴らしいなぁと思うのです。
あらゆる宗教、スピリチュアルを学び、知り、その上で、愛の選択をできるよう、最新の注意を払う。
そんな彼の本を読んでいると本当に彼は、英語版の著書の表紙のとおり「隠者」の人だなぁと思うのと、
きっとそれに対してフィリップ・カモワンさんは「吊られた男」の人のようだったのではないかなーとも思うのです。
アプローチは違えど、足して21になるこの二人の組み合わせは、
マルセイユ版タロットの細かな復刻という素晴らしいことを成し遂げていますね。
実は、わたしはタロットのリーディング手法としては、マルセイユ・タロットを使うようになってから
フィリップ・カモワンさんが提唱していた手法を中心に行っていまして、
アレハンドロさんがどのようにリーディングを行っているかはこの本で初めて知ることになりました。
(それ以前はエジプシャン、ライダー版と使ってきましたので、一通りの展開方法はやってきたのですけどね)
アレハンドロさんは、著書の中で「逆位置はどのような形であれ恐れを誘うので使わない」というような
内容のことを記載していらっしゃいます。
確かに。
わたしがカモワン・タロットに惹かれた最初の理由は、
この逆位置に対して解決カードをひくフィリップ・カモワンさんの手法に感動したからでした。
未来の選択肢はいくつもあるはずなのに、リーディングによって恐れを誘発したり
未来の選択を限定させてしまうということは、本末転倒ですものね。
アレハンドロさんは、タロットで未来を”予言”することも、”アドバイス”することも
本当にそこから起こるであろう、様々な影響を考えていて基本的にはしない、という姿勢をとっています。
タロット・リーダーは、聖者ではないとしても、聖性を手本にするべきだと述べているところを抜粋しておきます。
聖なる市民は、異性とも愛を交わし、子どもを持ち、家庭を作り、
人生を健全に楽しみ、セクトに属さず、姿を名を有する神が告げる教義を崇めず、
禁止に基づく道徳ではなく人類に有益な行為という観点に基づく道徳を実践する。
タロット・リーダーは、聖者ではないとしても、聖性を手本にするべきである。
では、どうすれば聖性を見習うことができるだろうか?聖性は先天的なものでも外部からもたらされるものでもない。
それは徐々に獲得されるものだ。
大きな事柄において優れたものであるためには、小さな日常の事柄において優れた者となる必要がある。
感謝、代価、称賛、服従、こうしたものを見返りとして期待せずに、ただ与えていく訓練をしなければならない。
他者と比較したり、他者と競争したりせず、謙虚に他者の価値を認められることも不可欠である。
自分の視点を尺度として世界を評価せず、思いやりを持って異なる価値を受け入れていかなければならない。
(『タロットの宇宙』アレハンドロ・ホドロフスキー 国庫刊行会)
このあとに、タロットをよむ人であれば・・・という具体的なことが1ページ以上にわたり具体的に書かれているのですが、
ここはぜひ、癒しをなりわいにしている人には読んでいただきたい部分です。
(第5章の「序」の部分ですね)
最近、ヌーソロジーに触れることがあり、いろんなことがタロットと重なり感動しているのですが、
アレハンドロさんは、この世界を実感し、理解しているのだろうなと思わずにはいられません。
(そこはまた後日・・・)
ほかにも、共感すべき点はたくさんあるのですが、
わたしも、タロットとご縁をいただいている身として、相談者さんを理解し、伝える言葉には最新の注意を払い、
なにより、いつも鏡となれる、パイプとなれるよう、自分を満たし、学びを続けていこうと思うのです。
コメント