こんにちは。八ヶ岳西麓・長野県原村で日々、タロットや占星術、石とともに学びを深めているMiyoです。
風の時代と一部で盛り上がって?た様子を淡々と見つめていたのですが、だいぶ落ち着いてきたでしょうかね。
年間数日しか実質休まなかったワーカーホリック時代に精神を病みかけて
スピリチュアルにはまり、とにかく答えを求めていろいろ散財するも
結局は自分の中にある答えを自分で見つけ出し、自分で決断し、自分で行動するしか答えはないんだと
そこに氣がついたとういか、「そうなんだろうな」と感じて、それをコツコツと確認しながら確信を深めている日々かなと思います。
なので、まだまだ道半ばなんですが。
だからこそでしょうか。
風の時代だーー個の時代、自由だぜーうぇーい!
とか
わくわくに従えばいいのよ♪
とか
ポジティブ教みたいなやつとか
なんというかですね。「これすらやっておけばいい」みたいな方程式的なものに対する違和感はずっと抱き続けているのです。
結局これって、何かによりかかる三角形構造というか、誰かを崇める宗教的構造と同じであって
自分自身の一部を放棄してしまうことにつながりかねないと思うわけです。
わたしは宗教には詳しくないのですが、本来は精神的な救い、よりどころ、学びを提供する大切な役割があって
今でも、教会を中心とした助け合いのコミュニティという意味ではとてもいい機能なのかなと想像はしているのですが
おおもとで、依存や個人の何かを奪う構造は入ってしまっているのではないかなと思っているわけです。
だからこそ、一般的にいわれているタロットの占い的な部分だけをピックアップした流れもすごく抵抗があって
本来はそういうものではなくて、知恵を学んだり、自身との対話のツールとして使うものなのではないかとずっと思っているのです。
リーディングは、結局のところ潜在意識からのメッセージを言語化する手段であって
「どうなるの?」ということも、現状からみた可能性の高い未来であり
その先には
自分はどうしたいのか
があるはずなんです。
占星術的に見ても、大きな流れとして、ほとんどの庶民は「自分はどうしたいのか」を仕組的に奪われてしまっている状況であれ、
その中でも、だからこそ自分はどうしたいのか、をもっと真剣に、真摯に考えることが大切なんじゃないかと思うわけです。
先日、ジブリ作品の「君たちはどう生きるか」をみてきました。
とても深い部分に訴える映画だったな・・・という感想で、わたしはタロットの師匠アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「リアリティのダンス」を見終わった後と同じ感覚を抱いたのです。
人間というか、この世界のいろいろに号泣でしたね・・・
(感想はこっちに書いてます。よかったら)
映画の中にですね。深いところに沈んでいくシーンがあるのですが、これってですね。
いわゆる「浄化」の過程でもあるかなと思うわけです。
浄化とは、いろいろな定義がありますが、基本的な考えは、「ひとつに戻る」「意識を合一する」と理解しています。
今生きている地球界では、個の、それぞれの宇宙を体験する場であり、人の数だけ宇宙がある。一方で、自分が宇宙を創り出しているため
すべて、自分が創り出しているもの=宇宙が一つしかないともいえます。
そして、普段の生活をするためには、個が当たり前でなくてはならない。人と人との区別、物と物との区別がなければ、認識ができないので必然的に「分離」が存在します。
この「分離」への意識が大きくなりすぎるとバランスが崩れ、様々な問題が発生していきます。
分離と合一のバランスをとるのは、生きていくうえで必須だったのかもしれません。
これは、潜在意識の成長サイクルにおけるⅩⅤ(悪魔)以降の流れであり、分離と合一の本来の意味に氣づくのが、ⅩⅧ(月)であるともいえるでしょう。
したがって、大きな視点でいえば、自分を浄化することは分離しすぎていないか、自分の意識やカラダを本来の部分に「合わせる」行為だといえるでしょう。
本来の自分と向き合えず、目を背けていては浄化ができません。(ⅩⅤの部分ですね)
そして、自分自身に存在していたもの、すべてを受け入れたとき新しい視点が開き(ⅩⅥ)
この自分で、生きて行こうと覚悟をきめたとき(ⅩⅦ)
本来の自分への合一が起こり、浄化となります(ⅩⅧ)
ちょっと深く入りすぎた感じがしますが、
今こそ、それぞれが自分自身へ意識を統合し、「自分」をしっかり生きる覚悟をする時期かと感じたわけですね。
そうしたら、きっとですね。軽やかに自分を楽しめる、本来の「風の時代」を謳歌できるのかなって思います。
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